安養寺について

安養寺とは

長野市青木島にある浄土宗寺院。川中島合戦の後、武田信玄公により戦没者供養の命を賜ったことから1567(永禄10)年、信玄公を開基、感譽存貞上人(増上寺第10世)を開山中興上人として以来、浄土宗寺院として歩みを進めています。

安養寺の僧侶

安養寺住職

服部淳一

はっとり じゅんいち

1950年(昭和25)東京生まれ。大正大学大学院修了。大正大学総合仏教研究所研究員、埼玉工業大学講師を経て現在、同大特任客員教授。浄土宗教学院理事。大本山善光寺大本願布教師会長。大本山光明寺記主禅師研究所講師。趣味はマンドリン(松代マンドリンクラブ所属)

安養寺副住職

服部祐淳

はっとり ゆうじゅん

1983年(昭和58)長野市生まれ。大正大学大学院修了後、浄土宗宗務庁入庁。『浄土宗新聞』の編集を12年間担当し退庁、長野に戻る。現在、月刊誌『浄土』(法然上人鑽仰会発行)編集担当。大本山善光寺大本願発行の広報紙『道心』編集。浄土宗総合研究所研究スタッフ。

安養寺の宗旨・宗派

名称蓮照山安養寺
開基武田信玄公
開山感譽存貞上人(かんよぞんてい 1522~1574)
芝・増上寺第十世
宗派浄土宗
宗祖法然上人(1133~1212)
本尊阿弥陀如来
宗旨南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とお称えすることで
阿弥陀如来の来迎をいただき、極楽浄土に往生できる
経典お釈迦さまが説かれた
『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』
の浄土三部経を拠り所とする
総本山知恩院(京都市東山)

安養寺の歴史

886

更級郡に安養寺設置

菅原道真の『三代実録』によりますと、貞観8年(866)に定額寺として更級郡(さらしなごうり)に安養寺を設置したと書かれています。定額寺(じょうがくじ)とはその地域を開墾し、開発した一定の農地に限って地租を免除された寺院を指します。

1563

武田信玄公不動明王を安養寺に預ける

戦国時代、あの有名な川中島の戦いで最後の第4回目の戦いの後、永禄6年(1563)武田信玄公は守り本尊である不動明王像を安養寺に預け、両軍の戦死者の冥福を祈ることを願っていったと伝えられています。

1567

浄土宗へ

浄土宗の大本山である東京芝・増上寺の第十世感誉存貞(かんよぞんてい)上人は、戦死者を弔うと共に善光寺へお参りに信州へおいでになりました。その節に、教えを受けた人々は感誉存貞上人を中興開山上人にお願いし、武田信玄公を開基とし、永禄10年(1567)安養寺を浄土宗の寺院として再出発することになりました。

1739

水害による移転

更級郡綱島村に建立された安養寺も二度にわたる犀川、千曲川の氾濫による水害によって移転しています。第1回目の水害は元文4年(1739)で綱島村御朱印(ごしゅいん)から大塚境へ移転し、そこで本堂を再建しました。

1787

再び水害による移転

再び水害に遭い、天明7年(1787)本堂と共に旧大堀館隣地に安住の地を求めました。

1896

寺子屋と経蔵

移転した後、第十七世承誉上人は江戸増上寺で勉学の後、安養寺に川中島平最初の寺子屋を開き、周辺の人々の教育に努めました。そのお礼のために宝篋印塔(ほうきょういんとう)(筆塚)が建立されています。学問を大切にすることにより、明治29年(1896)には一切経を収めた経蔵が建てられました。この中には日本最初の活字印刷による「縮刷大蔵経」が輪転庫に収納され、一回廻すと一度そのお経を読んだ功徳があるといわれています。

1971

鐘楼

第二次世界大戦の時、以前あった梵鐘は供出され、昭和46年(1971)新鐘楼が建立されました。浄土宗が開かれて八百年と安養寺開創四百年の記念行事ととして計画されたものです。設計の段階で、「誰でも梵鐘を撞けるように」と本柱に二本の稚児柱をつけた十二本柱としたために鐘楼への昇り降りが楽になり、参拝の折に檀信徒の皆さんが撞かれています。

1978

納骨堂(大悲殿)

昭和53年(1978)には山門左に仏壇と墓を合わせた新形式の納骨堂(大悲殿)を建立しました。

1988

東霊園開園

平成元年開園。隣接地の購入により平成元年に安養寺新霊園としてスタートしました。本堂裏の墓地は地域の発展と住民の増加によって手狭となり、檀家の皆さんからの要望もあり門前に東霊園として開園することができました。東奥には永代供養墓「永遠のいのち」が建立されています。事情があり継承者がいらっしゃらない場合、安養寺でご供養する施設です。

2004

西霊園開園/駐車場造成

平成16年開園。東霊園がほぼ一杯になったため、隣接地の購入により平成16年に安養寺西霊園としてスタートしました。本来の安養寺墓地に隣接し、現代の墓石事情により東霊園より規格を小さくし安価で建立できるようにしました。西霊園からは遠く北アルプスを望むことができ、好評を得ています。

・駐車場造成 平成16年開園

安養寺では檀家の皆さまの参拝、お墓参りの便を図るために三か所の駐車場を用意しています。東の山門前、西霊園、南の駐車場と50台駐車が可能になっています。

安養寺の

特色

安養寺

本堂

元文4年(1739) 綱島村に再建しましたが、再び洪水にあい、天明7年(1787)に現在の地に本堂を移転しました。八間四方の規模で、内陣が30cm高くなっている能舞台形式です。明治初期に修理をし、内陣は色彩が施されています。本尊阿弥陀仏と観音勢至両脇侍、善導、法然両大師の浄土宗寺院の純形式となっており、右位牌段には珍しい釈迦涅槃像が安置されています。

本尊

阿弥陀如来坐像

あみだにょらいざぞう

浄土宗の本尊さまは阿弥陀如来さまです。そのお姿は私たちを極楽にお迎えしていただく「来迎」の印相を示されています。右に観音菩薩、左に勢至菩薩と共に弥陀三尊として安置されています。その本尊さまに相応しく1739年(元文4)に再建された本堂は江戸時代の色彩と金箔で荘厳されています。

1978年建立

大悲殿

だいひでん

昭和53年建立。観世音菩薩を本尊としているため大悲殿と名づけられています。当時、安養寺では墓地用地の不足と納骨施設の近代化を考え、九州地方の納骨堂をモデルとして企画されました。地下の納骨施設の上に木製の仏壇が設置される形式で、座ってお参りするところに特徴があります。正面には檀家の宮林牛歩画伯の遺作となった山越(やまごえ)阿弥陀三尊画が安置されています。最近は継承者のいない方の永代供養墓としても利用されています。

1971年再建

鐘楼

しょうろう

昭和46年に再建。旧梵鐘は第二次世界大戦の折、供出。百四十三貫の梵鐘(京都岩沢梵鐘㈱鋳造)には先代英淳住職の「この鐘の音を聞くたびに、如来のお慈悲を心に刻み、先祖のご恩に手を合わせ、明るく楽しくむつまじく、今日の命を大切に、みんな達者で働きましょう」と自作の銘を刻み、時を知らせる鐘というよりも「いのちの鐘」として、誰でもが撞けるように設計されています。その思いは中村憲一氏の設計、㈱小山木材の施工により、二本づつの稚児柱を備えた低床の鐘楼となっています。

1896年建立

経蔵

きょうぞう

明治29年(1896)に建立。三間四方の土蔵造りで中には欅の六角輪転蔵があります。その中には明治18年日本最初の活字印刷による「縮刷(しゅくさつ)大蔵(だいぞう)経(きょう)」(『大日本校訂大藏經縮刷藏本 』東京弘教書院)が収められています。輪転蔵を回すと一度大蔵経を読んだ功徳があると伝えられています。平成15年には㈱サンスプレーのご好意により壁の全面改修が行われました。

ようこそ

安養寺の境内

本堂
本堂内観
経蔵
鐘楼
大悲殿
釈尊涅槃像
六地蔵
永代供養墓
みまもり地蔵菩薩
安養寺の

年中行事

毎年6月第4日曜日
大施餓鬼会法要
毎年11月第2日曜日
十夜仏名会法要
毎年12月31日午後2時~4時
つきおさめの鐘(除夜の鐘) 
年始参り・お盆の棚経(たなぎょう)

安養寺では毎年定期的に行われる定期法要と、不定期におこなわれる法要・儀式があります。

大施餓鬼会法要 毎年6月第4日曜日

大施餓鬼会法要 毎年6月第4日曜日 一般には「おせがき」と呼び、お釈迦さまのお弟子さんで阿難尊者(あなんそんじゃ)のお話に由来します。「餓鬼に施す」ことで、生前の悪行によって、食べようとするとその食べ物が炎に変わってしまうような苦しみを受ける餓鬼道に堕ちた死者の魂や、無縁となってしまった霊に善を施すことにより、功徳を積むことができるのです。今は飽食の時代であり、食べ物に不自由することはありません。しかし食べ物は自然からの恵みであり、気候の変動によって世界には飢え死にしていく子供たちがいることを忘れてはいけません。食べ物は多くの人たちや、自然のお陰で私たちはいただくことが出来るのです。

安養寺では、二十三世住職が戦後まもなく戦死者の供養が出来ない時代でしたから、希望者を集めるのではなく、年回に当たっているすべての霊のお塔婆を書き、案内を出して皆さんにお参りいただき「おせがき」を勤めました。それ以来、年回と年回に当たっていない檀家には先祖代々の塔婆を用意するようになりました。今は当たり前のように勤めている「おせがき」ですが、戦後の時代の気持ちを忘れないようにしなければなりません。法要終了後「おとき」を供しますが、内容は時代に応じて変化しましたが、それを忘れないためにメニューの中、丸ナスのゴマ汁かけ「蓮華なす」は変えないでいます。※現在はコロナ感染対策のため、おときは中止しています。

十夜仏名会法要 毎年11月第2日曜日

浄土宗の定期法要には「十夜(じゅうや)法要」と「仏名会(ぶつみょうえ)法要」があります。安養寺ではこの二つの法要を合わせて行っています。「十夜法要」とは、特別に十日十夜の間、お念仏による善行を積んだならば、その功徳は他の善行をする千日分と同じであると経典に書かれています。後花園天皇の命により京都の真如堂で、後土御門天皇の命により鎌倉・大本山光明寺で修されるようになりました。「仏名会法要」は年末にお念仏を称え、その年に重ねてしまった罪を洗い清める法要で、光仁天皇が宮中で始められ浄土宗に伝えられました。

この法要は皆さんに参加していただきます。お念仏を体を使って称える礼拝(らいはい)をし、気がつかずに積んでしまった罪業を懺悔(さんげ)し、自分自身を反省して良い年を迎えようとするものです。この法要ではお塔婆のご回向が特色です。回向師という役の僧侶が、特別な節回しによって塔婆のご回向をします。特にご回向して差し上げたい霊位や、年回に当たっていても法事のできなかった霊位のお塔婆のご供養をお申し込みください。礼拝の中にご回向いたします。

つきおさめの鐘(除夜の鐘) 毎年12月31日午後2時~4時

昭和四十六年に再建した鐘楼で除夜の鐘を撞(つ)きます。これまで「除夜の鐘・二年参り」として大晦日に年をまたぎお参りいただいておりましたが、深夜の路面凍結の安全面のほか、お孫さんなど多くの方にお参りいただくため令和元年より日中に「つきおさめの鐘」として日中に行うようになりました。除夜の鐘は人間の持っている多くの煩悩を百八に代表し、払ってよい年を迎えられるように撞くものです。安養寺では数を計算せず、お参りいただいた方は自由に撞くことができます。檀家の方でなくてもどなたでも結構です。お参りいただいた方には、無事に一年が送れますように破魔矢を贈呈いたします。

年始参り・お盆の棚経(たなぎょう)

安養寺では年に二回お檀家へお参りにうかがいます。お盆の棚経は8月13日から16日の午前中までお仏壇のあるお宅へ参上します。年始参りは1月2日から中旬までお参りします。昔は安養寺でも尼僧さん(倉沢智成尼)がおり毎月の命日にお参りする「月まいり」をしていましたが、日程の都合により継続がかなわず、それに代わるものとして、この二回のお参りをするようになりました。また最近は法事もお寺の本堂で営む機会が増えましたので、自宅でお参りができるこの二回は大切なものとなりました。

  その他の行事につきましては、随時お知らせいたします。

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