浄土宗と法然上人

安養寺は浄土宗です。その浄土宗を開かれたのが法然上人です。法然上人は一一三三年(長承2)四月七日、美作(みまさか)国(のくに)久米南(くめなん)条(じょう)稲岡庄(いなおかしょう)(今の岡山県久米郡久米南町)に誕生しました。父は漆間(うるま)時国(ときくに)といい、当時この地方の治安をあずかる押領使(おうりょうし)を務めていました。母は秦(はた)氏(うじ)の出身であり、両家ともこの地方の名族でした。幼名は勢至丸といい、一人っ子として両親の庇護のもとに成長しましたが、突然この地方の荘園開発領主の息子である明石(あかしの)定明(さだあきら)の恨みを買い、父時国は夜討ちにあい、その傷がもとで非業の最期を遂げてしまいました。死に臨んで父は勢至丸を呼びよせ、「あなたが私の仇を討ったりすれば、恨みは永遠に消えることは無い。どうか相手を恨むことなく、この俗世間を捨てて私の菩提を弔い、さとりの世界を求めて修行して欲しい」と言い残されたのでした。

修行の道へ

この遺言に従い、母の弟である観覚(かんがく)が住職をする菩提寺に入り、仏教の道を歩み始めたのでした。それは勢至丸九才の時でした。菩提寺での勉強で非凡な才能を見出した観覚は、当時の学問の中心であった比叡山で学ぶことを勧めました。十三才になった勢至丸は母とも別れ、遠く離れた比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)へと登り、源光上人、皇円阿(こうえんあ)闇梨(じゃり)について天台の学問と修行の道を進み、法然(ほうねん)房源空(ぼうげんくう)と名づけられました。その学力は「知恵第一の法然房」と讃えられるほど優れ、やがては仏教界の第一人者になることを約束されていました。ところが法然上人はそのような名誉や権力のために出家したのではないとして、十八才の時にこの出世コースを捨て、比叡山の中でも厳しい修行と学問を静かに続ける黒谷別所へと隠遁してしまいました。これは父の遺言であるとともに、「私のように、仏教のことを少しも学んだことのない人でも救われる道を教えて欲しい」という母の願いが大きく影響しています。その教えを求めて毎日毎日、お釈迦さまの教えやそれを解釈した論書などがまとめられている「一切経」といわれる数千巻に及ぶ経典類を読み続けたのでした。二十四才の時に一度奈良や京都に高僧を訪ねていますが、それ以外は四十三才までの二十数年間は比叡山の東塔(とうどう)にある黒谷青竜寺(せいりゅうじ)の報恩蔵(ほうおんぞう)(お経の蔵)に篭ってその生活を続けました。

浄土宗を開かれる

何度も読み返し、恵心(えしん)僧都(そうず)源信(げんしん)の書かれた『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』の文に導かれ、ついに救いの道を見出すことができたのでした。一一七五年(承安五)三月、法然上人四十三才の年、善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』の一節、

「一心に阿弥陀仏の御名だけを称え、歩いている時も、止まっている時も、起きていても、寝ていても、時間の長い短いに関わらず、片時も忘れないで念仏するのを、必ず救われる正しいはたらき(正定業(しょうじょうのごう))という。なぜなら、この行は阿弥陀仏のお誓いになった本願にかなっているからである」

「一心(いっしん)専念(せんねん)弥陀(みだ)名号(みょうごう) 行住(ぎょうじゅう)坐臥(ざが)不問(ふもん)時節(じせつ)久近(くごん) 念々(ねんねん)不捨者(ふしゃしゃ) 是名(ぜみょう)正定業(しょうじょうごう) 順彼仏(じゅんぴぶつ)願故(がんこ)」

により、念仏による救いの道を見つけられたのです。この一節を「浄土開宗の文(もん)」といいます。この『観経疏』を書かれた善導大師は、隋の時代(六一三年)に生まれ、唐の仏教界を先導した中国の名僧です。インドから中国に伝わり、龍樹(りゅうじゅ)、世親(せしん)、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)と伝承された浄土の教えを集大成し、多くの著作を残されています。阿弥陀さまに救われるお念仏の教えはこれであるとして、浄土教の真髄を明らかにされたので、阿弥陀仏の化身と仰がれ、浄土宗では善導大師を高祖、法然上人を宗祖(しゅうそ)として尊んでいます。

 浄土宗では多くの経典の中から、特に阿弥陀仏やお念仏のことを詳しく説かれている『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を浄土三部経として大切にされていますが、その中で阿弥陀仏や極楽の姿を詳しく説かれているのが「観無量寿経」であり、その注釈が善導大師の書かれた『観経疏』なのです。

 その後、法然上人は比叡山を下り、京都東山大谷、吉水の地に草庵を結び、念仏の教えを広められましたが、その教えはまたたく間に人々の求めるところとなりました。源氏平家の戦いなど戦乱が相次ぎ、被害にあったり、死者や被災者を多く目にしたりするなど地獄のような有り様を目にし、生活の不安を実感する人々にとって、阿弥陀仏に救いを求め、南無阿弥陀仏と称える念仏に希望を託するほかに道がなかったと思われます。その草庵の跡には浄土宗総本山である知恩院が建てられています。

晩年の法然上人

この念仏の教えは一般庶民だけでなく、天皇貴族まで広がり、太政大臣である九条兼実も熱心な帰依者でした。その九条兼実の願いによって書かれたのが、法然上人の代表作『選択(せんちゃく)本願(ほんがん)念仏集(ねんぶつしゅう)』です。

 やがて念仏の教えが非常に盛んになることを恐れた天台宗などの僧侶は、念仏の教えを説くことを停止するように訴えを起こすようになりました。上皇の女官がその教えによって尼僧となるに及んで、その怒りを招き、とうとう七十五才の法然上人は四国へ流罪の刑を受けてしまいました。これを建永(けんえい)の法難(ほうなん)といいます。年老いた師の流罪を心配する弟子たちに対して「この流罪がきっかけとなって、今まで訪れることがなかった四国のちにも念仏の教えを広げることができます」と、逆に諭されたと伝えられています。

 配流の地である讃岐(現在法然寺がある)で八ヶ月を過ごされた法然上人は、許されて帰途につくことになりましたが、京都に戻ることは許可されず、四年間を摂津の勝尾寺に留まることとなります。七十九才の時にようやく京都に戻ることができましたが、配流の疲労と老衰が原因となって、一二一二年(建暦二)正月より病の床に着かれてしまいました。一月二十三日には長年側に仕えてきた勢観房源智の願いにより、念仏の教えの肝要を一枚の紙に書き残されました。これが「一枚起請文」と呼ばれ、現在でも大切にされています。二十五日の正午ころ、弟子たちが念仏を称えながら見守るなか、静かに息を引き取られたのでした。

法然上人が伝え残したかったもの

八十年の御生涯は、誰でもが救われる道を求めての求道のためのものでした。法然上人は、人間は財産、地位、学問のある無いに関わらず、一人で生きているのではなく、自分は阿弥陀仏の救いの力がなければ救済されないと信じ、自分こそが阿弥陀仏の救いの対象であることを信じて、一生涯「南無阿弥陀仏」と称えることを伝えられたのでした。

 念仏を続けることによって、臨終の時に必ず阿弥陀仏が二十五の菩薩と共にお迎えに来て、その浄土である西方極楽に往生させてくださるのです。往生した後、少なくとも四十九日の間、生前のさまざまな罪や業を洗い流していただき、菩薩となることができるのです。これが阿弥陀仏のお救いなのです。法然上人以前は、人間界から離れるには、厳しいあるいは長い時間をかけた懺悔のための修行など一定の能力や期間を必要としました。これが出来ない人たちにとっては、法然上人によって示された教えは何にも代えがたい大切なものだったのでしょう。この教えによって「死後の恐怖」から逃れることができ、死を見つめることにより人生の目的意識も明確になり、生の時間も活きてくることになります。

 法然上人の教えは、第二祖鎮西聖光(ちんぜいしょうこう)上人、第三祖記主良忠(きしゅりょうちゅう)上人へと伝えられ、第七祖了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人の時には「教えを伝える方法――伝法(でんぽう)」が整備され、これが基となって江戸時代には仏教界を代表する宗派として花が開くこととなります。現在は法然上人のお墓のある総本山知恩院を中心として、東京・増上寺、鎌倉・光明寺、京都の金戒光明寺、百万遍知恩寺、清浄華院、久留米・善導寺、長野・善光寺大本願の七つの大本山と、全国に七千余りの浄土宗寺院を数え、法然上人の教えは今もなお多くの人々の心の支えとしていき続けています。